野心と志
この二つの言葉は、似て非なる言葉です
この二つの言葉は、それを行為としてみるならば、極めて似ているのですが、
実は、その根底にある心のあり方が、まったく違っているのです。
では、何が違うのか。
己一代で、何かを成し遂げようとする願望。
それが「野心」です。
己一代で成し遂げ得ぬほどの素晴らしき何かを、次世代に託する祈り。
それが「志」です。
「野心」とは、「小さな自我」の叫びです。
何か「大きな事業」を成し遂げる事によって、
自分自身が「何者か」である事の証を求める。
その叫びです。
これに対して、
「志」とは、「小さな自我」が「大我」へと向かう
心の成長の営みです。
縁あってめぐり合った人々と、ともに大きな夢を描く。
そして、その夢を実現する為に、力を合わせ、心を一つにして歩む。
その歩みの中で、互いに深い共感の世界がうまれてくる。
そして、いつか、「私」が「我々」になり、
それは、自分の「小さな自我」が
「大我」とでも呼ぶべき何かへと広がっていくプロセス
僕は、大学の頃中国の故事成語にはまりました。その中に、
「愚公山を移す」
とうものがあります。
北山に住む90歳近い愚公という人は、北を塞いでいる一万ジンもある二つの山を崩し、南に通じる平坦な道を切り開こうと考えた。
これを家中の者に相談した所、子や孫は賛成したが、細君だけは疑いをさしはさんだ。
「年寄りの力で、小さな丘でさえ切り崩す事はできないと思うのに、太行山と王屋山のように高い山がどうなるものですか。だいいち、崩した土や石をどこに置くつもりですか」
というわけだ。
「土や石は渤海の浜へでも捨てればよかろう」ということで、三人の子や孫を引き連れて山に行き、崩した土や石を箕(み)やもっこで渤海の浜へ運び始めた。
近所の七~八歳の男の子も手伝いに加わった。
何しろ、渤海まで一往復するのに一年がかりという、気の遠くなるようなありさま。
これを見た知叟(ちそう)という男が笑いながら言った。
「馬鹿さ加減もいい加減にしたらどうだ。行き先短い体で、山の一角さえ崩しきれまいに。」
すると愚公翁さんは哀れむように答えた。
「あんたみたいな浅い考えの持ち主には、到底分かるまい。あんたの知恵は、あの小さな子供にも及ばない。
たとえ自分が死んだとて子は残るし、それが子を生み、孫はまた子を生む。子孫は絶えることはあるまい。
子孫代々山を崩し続ければ、いつかは平らになるはずじゃ。
崩した山が元に戻る事はないからな」
知叟も、これには反論のしようもない。
志というのはこういうことなのだなと思います。
私も、自分一代で教育改革がなされるとは思っていません。100年、もっとかかるかもしれません。
だからこそ、自分の意思を後世に伝えられるような人間になりたいですし、
そういう言葉をたくさん持てるよう、経験を体験に昇華させる心がけを忘れたくないと思います。
そうですね、
自分は、「礎」となり、その自分を土台に何百何千の後輩が巣立っていけばいいなと思います。
新店を開けたときも、いつまでも自分がここに居るわけじゃないとの思いで後につなげられる事は何かと思って仕事をしていました。
新規事業を行っている今も、自分が土台を作る所をしっかりやって、この会社にとって重要な機関となるようにして、後輩達に繋げたいと今思っています。
野心ではなく、志
自我ではなく、大我
私心ではなく、世の中
こう思える仲間がたくさんになった時、時代がゆっくり動き出すのだろうと思います。
これから働き方はどう変わるのか―すべての人々が「社会起業家」となる時代/田坂 広志