今日カンボジアの子供達の現状のVTRを見ました。
本当に胸が熱くなる内容でした。
「絶望」
この言葉が頭をよぎるくらい悲惨な状況でした。
医療を受けたくても、受けられず足が腐ってしまった子供。
食べ物もろくに食べられない子供。
その日生きるために、一日中ごみの中をあさって、アルミの破片を集めて何とかお金にしている子供。
これらの現実を見ると、日本に生まれたこと自体に本当に感謝せねばならないと思いますし、
だからこそ、その幸せを貧しい国の人たちにも還元していかねばならないという気持ちになります。
社長が言いました。
カンボジアの子供達の為に、寄付をします。
誰の為にそのお金が使われているのか、
何を買うためにそのお金が使われているのか正直分かりません。
お金を寄付するという事は、お金を寄付したら終わり。
つまり、出したお金に対してのみ責任がある、有限責任なわけです。
しかし、その子の里親になったとします。自分のお金をその子を育てるために寄付したとします。
あなたのお金はこの子を育てるために使っています。と写真を見せられたとします。
いったいどう思うでしょう?
なんとも言えない気持ちになるのではないかと思います。
その子に対して特別な感情を抱いてしまうかもしれません。
その子の未来を背負わなくてはならないというある種の義務感を背負うかもしれません。
そうしたとき、責任は無限に広がります。
この子に本当に幸せになってほしい、
この子を立派に育てたい。
それは、相当な覚悟がいることです。
人、一人の人生を背負うという事はとてつもなく重いことです。
お金払って終わりではありません。
そこには本当の意味で
「寄り添い」
というものが必要になるでしょう。
今の自分にはまだまだその覚悟はもてないなぁ~~~と未熟である自分を見つめながらも、
涙が出そうになりました。
教育という仕事。
これも無限責任の世界になると思っています。
その子の人生に関わる仕事です。
高校に受からせたら終り。
合格請負人。
それは、その子の進学においてのみ責任を負う、有限責任です。
しかし、その子が合格して、どんな人生を歩むのか。
その先に何を見つめるのか?
そこまで含めてその子に体当たりしてこそ教育。
教育は無限責任の世界。
その世界を追求する中に、本当の教育があるのだと思います。
そんな無限責任を負える人間になりたいと思います。
しかし、無限責任を負えば負うほど、一つの壁に突き当たります。
自分ひとりの力の限界です。
自分も人間。
一つの魂。
その時、無限責任という言葉は、
「祈り」
という言葉に向かいます。
その祈りを後世に届けていく事。
その事が大切なのでしょう。
その祈りを後世に伝える営み。
それが、志の世界。
使命感を持った生き方。
そんな風に、社長の話を聞きながら一人考えていました。