大学時代、HPを作りその中で自分の人生観を書いていました。
やっぱりこれがすべてだなぁと思います。
「青空」を伝える。
この「青空」という言葉。
誰でも知っています。
しかし、今僕が思い描いている青空と同じ青空を描けた人はいるでしょうか?
いないはずです。
その空には太陽はありましたか?
青の度合いはどれくらいでしたか?
雲は一つも無いですか?
日本から見た空ですか?それとも別の場所ですか?
ちょっと考えただけでいろいろなシーンの「青空」があります。
そう、これが言葉の限界。
言葉は自分の思っている100%を伝える事はできない。
言葉というのは、自分達が見ている「現実」を切り取って言葉を当てはめているだけ。
つまりアナログな世界を強引にデジタルな世界において理解しようとしているだけ。
だから、言葉は多義的となる。
しかし、人間が自分の思っていることを伝える方法は、言葉だけ。
だからその多義的とも取れる「青空」という言葉を、一生懸命説明する。
そんな中、その言葉に説得力があるひとと無い人が現れる。
その違いは何であろうか?
僕は、「経験」だと思う。
その言葉に、どれだけその人の経験が乗っているか?
そのことで、その言葉に対する説得力は全く違うものになる。
その時、僕の「青空」は一意の言葉となる。
その「青空」は
「あの人の言葉、あの人なりの言葉」
と言われる。
そんな言葉をたくさんもちたい。
様々な経験をし、いろいろな事を伝えられる人になりたい。
最近、田坂広志先生の本を読み、より一段深まった。
上述したとおり、言葉というのは、アナログな世界をデジタルに切り出しただけ。
言葉の本質は、
単純化、構造化、論理化
つまり、複雑に絡み合うアナログな世界を単純に捉えようとする。構造化したり論理化したりして、理解しやすいようにする。
という事は、結局はその時に「大切な何か」が伝わらない事がある。
では、その伝わらない部分。言葉にならない部分はどうやったら伝わるのだろう?
もうそれは、同じ空気を吸って、同じ場を共にしながらでしかない。
つまり、直伝とか伝授といったものになる。
伝統もそうやって作られていく。
一流の大工さんが本を書いたとして、その本を読んだからといって、その大工さんみたいな技術が身につくか?といったら決してそうではない。
やっぱり、その大工さんの下に弟子入りして、言葉にならない「感覚」の部分を身に付けていかなければならない。
長島監督のコーチを見て
「球がビューっときたら、ヒュッって振るんだ」
笑ってしまうけど、そういうことなんだろうね。
言葉にはできないんだよ。その感覚は。
だから、長島さんの定義する、「ビュー」とか、「ヒュッ」ってものを、一緒にいて学んでいかなければならない。
どんなに文明が発達しても、結局人は、対面でしか本当のコミュニケーションはできない。
そうなんだろうなって思います。
たくさんの経験を持ち、たくさんの言葉を持つ。
そして、たくさんの人と同じ空気の中、同じ場を共有して物事を伝えらられる人間になりたい。
そう思います。