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鈴木大拙~禅とは何か:何を仏教生活というか①~

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20:53 第二講 何を仏教生活というか #

20:53 仏教者としての生活にその中心となるべき思想があるとすればそれは何であるか。 #

20:53 仏教徒は何かというときには、禅者は狗子に仏性ありや之れなしやというように出てくる。 また真宗では、弥陀の本願、すなわち是れ仏教であるという。 #

20:53 仏教というものに、三つの要素を考えなくてはならぬ。あるいは四つあると言ってもよいかもしれない。 #

20:53 第一は仏の人格である。 #

20:54 いかなる宗教であっても人格が中心にならないものはない。 #

20:54 われわれが人の言う事を聞いて信ずるという事は、その言う事が本当であり、論理的であるという事だけで、必ずしもそれを信ずるということにはならないのである。まず言う事が本当でなくてはならぬが、その外にその言っている所の者の人格が、その真実の中に加わってくる事が必要である。 #

20:54 論理的や事実の上に、人格が加わるというと、われわれはその説以外に1個の圧迫を感じてくる。#

20:55 人格というものは真理以上の一つの力を持っている。 #

20:55 矛盾があっても、多少不合理なところがあっても、そこに人格なるものが加わるというと、それを肯定するところの働きが、自然に含まれてくるものである。 #

20:55 親鸞聖人は、「自分は法然上人の言葉を信ずるだけだ。地獄へ行っても極楽へ行ってもよい、法然上人の行かれる所であってみれば私はただそこに行くだけだ。地獄でも一人でない、自分の師匠の行かれるところだからさしつかえない」と言われている。 #

20:55 この人をして絶対の他力を恃ましめる、如来の人格の力というものが、すなわち宗教の背景をなすものである。 #

20:55 次には釈迦の経験-体験-実験、これがことに重要な事柄である。 #

20:56 人格の力というものは渾然とした一つのものになってこちらに来るものである。けれども、経験は、個々の事件として生活の上に起こった意識、それが経験というものである。 #

20:56 『成道』と『涅槃』釈尊の一代において重大な事実の中心となっているものとして認める。 禅宗では、12月8日成道会、2月25日涅槃会 #

20:56 第三の因子としては釈迦の教えというものである。 #

20:56 教えというものは、経験と道理というものがお互いに結び付けられているもの #

20:57 仏の人格は、千古、万古、狂わないでありましょうが、その教えということについては、今日はずっと進んだ教えを説く事が可能である。 #

20:57 教えに含まれている真理というものは、今日のわれわれがもっている意識に適合するように、論理上の運用ができるのである。 #

20:57 第四番目のものに考えを及ぼさなければならない。 仏自身の人格と体験と、及び仏の教えというもので、仏教が構成されているというのではなくして、仏以後の仏教者の生活の体験というものがはいって来なくてはならない事を認めることである。 #

20:57 人が自分は仏を信ずるというならば、その人の信ずるというその心がやはり仏の経験の上に加わってゆき、仏の教えに加わってここに自分だけに入用なものを創造する。 #

20:58 その人その人に入用なものを創造する、そしてそのものが仏教という一つの流れに加わってゆく、これが大事なことであると思う。 #

20 :58 この流れの中に偉大なる自分の体験というものを注ぎこんでいく #

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