最近、『無限責任』という言葉をよく聞きます。 対比する言葉は『有限責任』です。 例えば、寄付をする時に、時々によってしたりしなかったりするというのは、有限責任の範囲です。 継続的に行おうとするのではなく、ある瞬間だけその問題に対して関わり、解決のお手伝いをする事が有限責任というものです。 一方、無限責任というのは、『やり続ける覚悟を持って事に当たる』という事を意味しています。 発展途上国に学校と孤児院を建てたとします。 学校は、有限責任 孤児院は、無限責任 です。 学校は、作るところだけ支援しておしまい。運営は地元の先生達に任せるという側面が強いようです。だから、学校を建設するという限定的なところにおいて責任を負ったわけです。 ところが、孤児院は受け持った彼らの人生全てを預るわけで、無限責任だというのです。限定的な責任を負っているわけではないということです。 この無限責任という言葉を昨日ずっと考えていたのですが、なるほど、この言葉をよくよく考えないと解釈間違えるぞと思いました。 仮に、『し続ける事』『目の届く範囲で関わり続ける事』が一番重要であるとするなら、何か違うような気がしていました。 無限責任の本質を考えるならば、 『彼、彼女の人生に自分の精神が入りこむ事』 なのではないかと思っています。 例えば、私は新入社員の初期教育を行いました。彼らに『人として』『社会人として』『店長として』というところの精神を徹底的に教えます。
そこには少なからず、私の思想が入り込みます。そして、今後の彼らの社会人としての判断基準であったり、行動規範であったりを与える事になります。 では、私は彼らを自分の目の届く所にずっと置いておくか?ずっと連絡を取り続けるか?といえば答えはNoです。 その後彼らは、彼らの進む道を行きます。
しかし、一ついえるのは、私の教えが彼らのどこかにあるわけです。
こんなにも恐ろしく、覚悟のいる事は無いのではないか?と思います。 彼らの人生の中に、自分の思想が入るわけです。 責任がないわけありません。それこそ、無限の責任を負います。 中途半端な覚悟で、新入社員の教育がやりたいなど言えるわけがありません。 本部に来て、私が受け入れた社員と一緒に仕事をする機会がありました。 ある時、『私の店長スタイルは、店長(僕のこと)から教わったものがかなり影響していました』 と言われました。 嬉しい事ですが、こんな責任ある仕事無いなと思いました。 結局、無限責任というのは責任を負うということに対する『覚悟の度合い』だと思います。 この子の一生を自分が決めるんだという気持ちで、彼らに正対してるか?このことが一番大切なのだと思います。 だから、一時的であっても覚悟あって受けれることができるなら、それは無限責任を負ったことになると思うのです。 その後目に届かない所にいても構わないのです。 同じ志を持って、同じ山を登ろうと決めたのだという気持ちがあればいいと思います。 いずれ頂上で再会を約束した人々 (この言葉を書くと泣きそうになる^^;) として、同志としての覚悟が持てれば、そこに無限の責任を持つ事になると思います。 だからこそ、仕事には『覚悟』が必要なのです。