国の復興、豊かになる事を使命に日本の学校教育は、均一の一斉授業を展開する。 社会において一定の戦力になる事を期待される教育がなされてきた。
「教育の義務」
によって、誰にでも平等に教育の場が与えられた。 その平均、平等の教育がねじまっがった形で、 解釈されるようになる。
機会において、平均・平等の教育であったはずが、
過保護になる事が平均・平等の意味になってしまった。
喧嘩する事を許さない。
みんな仲良く。 競争する事を許さない。
優劣なんてない
目立つ子が現れるのを許さない。平等の意味の捻じれ
がんばる事がかっこ悪いとされる。当たり障りなく生きる
このような教育をほどこされて、過保護に扱われてきてしまった子供達は、
競争する事を知らないがゆえに挫折を味わう事を知らない。
喧嘩をする事を知らないがゆえに、相手の痛みが分からない。
日本社会は、資本主義社会。
資本主義社会の本質は、「競争原理」
競争が前提となる社会。
結果が求められる社会。
その中でよりよいサービスが生まれ、サービスレベルが向上していく。
そのサービスの受け手は顧客。
つまり、顧客の痛みを知らねばならぬ社会。
それなのに、幼少期に過保護に育てられてしまっては、社会に出てそのギャップに苦しむのは当たり前の事である。
という言葉で最近の新社会人が揶揄されているが、
今のゆとり教育世代の子供に問題があるのではない。
そういう日本社会の仕組みを理解せず社会と教育の乖離を生み出してしまった、大人達に責任がある。
ゆとり教育は見直される事になったが、これからの教育のあり方は、至上主義社会を前提とし、その社会の中 で生抜く事を軸に教育が展開されていかなければ、
いつまで経っても、教育現場と社会との乖離は埋まる事はない。
もう、会社が新入社員に対してコストと時間をかけて育てる時代は終わった。
そんなことに年数かけている間に、このドックイヤー、いやシカダーイヤー【蝉の年】と言われるほど激動の時代で企業が生抜く事はできない。
社会に出る時には、即戦力。
という時代になる。即戦力として世の中に価値を出せない学生は企業から相手にされない時代になる。
だからこそ、教育は、資本主義を前提とした、競争社会を前提としたものに、なっていく。
その前提となる、「資本主義」という考え方もパラダイムシフトが起こりつつある。
このキーワードを理解する必要がある。
競争とは、何も相手を打ち負かす事ではない。
相手を蹴落とす事ではない。
慈悲の心を持ち、世の中に貢献したいと願う。しかし、その願いだけでは事業は出来ない。だから、その事業を永続させるための利益が必要。
そして、競争とは究極は自分との戦い。
自分の信念を曲げない戦い。
自分と相手との関係。
それは、
「切磋琢磨」
の関係となる。
切磋琢磨
こういったキーワードを前提とした教育がなされていく時代となっていく。