|-【仕事論】

野心ではなく、志をもって仕事をする。

~~あなたは今の現実の向こうにどんな未来を見つめていますか?

次の話を読んで考えてみて欲しいです。

▼二人の石切り職人▼

旅人が、ある町を通りかかりました。


その町では、新しい教会が建設されているところであり、

建設現場では、二人の石切り職人が働いていました。


その仕事に興味を持った旅人は、

一人の石切り職人に聞きました。


あなたは、何をしているのですか。


その問いに対して、石切り職人は、

不愉快そうな表情を浮かべ、ぶっきらぼうに答えました。


このいまいましい石を切るために、

悪戦苦闘しているのさ


そこで、旅人は、もう一人の石切り職人に

同じことを聞きました。


すると、その石切り職人は、

表情を輝かせ、生き生きとした声で、こう答えたのです。



ええ、いま、私は、

多くの人々の心の安らぎの場となる

素晴らしい教会を造っているのです。



どのような仕事をしているのか。

それが、我々の「仕事の価値」を定めるのではありません。



その仕事の彼方に、何を見つめているか。

それが、我々の「仕事の価値」を定めるのです。



これから働き方はどう変わるのか~田坂広志 講談社より~



私は、現実の仕事、目の前の事の向こうに



▼日本の教育改革を見ています▼


企業がもっと学校教育に入っていく。ゆくゆくは、企業が街づくりの中心となる。そんな世界を作ります。


現在、企業社会と学校教育には隔たりがあると思っています。

この事は、外食店長経験にて10代~20代の子供達と接したり、採用活動にて学生と接したりする中で感じる事です。



ゆとり教育の弊害



競争、怪我や挫折する事を否定される幼少時代を過ごしてきた彼らは、ストレスに対して非常に弱いです。


しかし、実社会では競争があり、結果や成果を求められます。


このギャップがある中で、彼らがつぶれてしまうのは至極当然の事だと思っています。

ですから、企業での教育だけ改善しても問題の根本解決にはならず、学生時代の教育だけ改善をしても問題の根本解決にはなりません。


双方に一貫性があって初めて、改善が進むと思っています。

日本は、自由主義社会の国ですので、競争が前提にあることを認めた教育が子供達にされないと現在の学校教育と企業社会の乖離は埋まる事はありません。
 

その為には、もっと企業が学校教育に関わっていくような場が必要ではないかと思っています。



「地域密着型企業」



がもっとたくさんできて、学校の教育にも積極的に関わっていくような世界を作っていきたいと思っています。

世の中にどんな仕事があるのか?


仕事をするということはどういうことなのか?

インターンシップや、就業体験を通じて、


自分が本当にやりたい仕事は何か?


自分は何を持って社会に貢献していきたいか?を考え、その為に勉強をしていく子供達を増やしていきたいと思っています。

その為の修行の場として、私は外食店長経験を選びました。夢を叶えるためには、まず自分が人を惹きつけられる人でなければならない。


マネジメントを覚えるには、外食の店長は最良の職種だったと思っています。

なぜなら、店舗の90%以上はアルバイトさんです。アルバイトメンバーには基本拘束はありません。



休みたければ休めばいい



辞めたければ辞めればいい



労働時間も自分の申請が基準です。

一方社員は、週5回、1日8時間は拘束されるので、実はマネジメントが簡単です。

そして、外食店舗というのは、



一般の方が休んでいる時、遊んでいる時が繁忙期です。



その時に休んだり遊んだりしたいのは、アルバイトさんも同じです。そのような彼らを、自分の作りたい店を描いて、協力してもらえるように惹きつける事は相当なパワーの要ることです。


人は、「この人と働きたい!」と思う人でないと、自分の予定を削ってまで協力してくれません。


そんな経験を経て、教育というものを学んでいます。この事を是非実社会で生かしていきたいと考えています。


▼野心ではなく、志を持つ▼

野心と志


この二つの言葉は、似て非なる言葉です


この二つの言葉は、それを行為としてみるならば、極めて似ているのですが、


実は、その根底にある心のあり方が、まったく違っているのです。


では、何が違うのか。



己一代で、何かを成し遂げようとする願望。

それが「野心」です。



己一代で成し遂げ得ぬほどの素晴らしき何かを、次世代に託する祈り。



それが「志」です。



「野心」とは、「小さな自我」の叫びです。


何か「大きな事業」を成し遂げる事によって、

自分自身が「何者か」である事の証を求める。


その叫びです。



これに対して、


「志」とは、「小さな自我」が「大我」へと向かう


心の成長の営みです。


縁あってめぐり合った人々と、ともに大きな夢を描く。


そして、その夢を実現する為に、力を合わせ、心を一つにして歩む。


その歩みの中で、互いに深い共感の世界がうまれてくる。


そして、いつか、「私」が「我々」になり、



それは、自分の「小さな自我」が


「大我」とでも呼ぶべき何かへと広がっていくプロセス


これから働き方はどう変わるのか ~田坂 広志講談社より~


私は、「礎」となり、その自分を土台に何百何千の後輩が私の意志を繋いでいってくれればいいなと思っています。

新店を開けたときも、いつまでも自分がここに居るわけじゃないとの思いで後につなげられる事は何かと思って仕事をしていました。


新規事業を行っている今も、自分が土台を作る所をしっかりやって、この会社にとって重要な機関となるようにして、後輩達に繋げたいと今思っています。


「愚公山を移す」


という中国の故事があります。


北山に住む90歳近い愚公という人は、北を塞いでいる一万ジンもある二つの山を崩し、南に通じる平坦な道を切り開こうと考えた。


これを家中の者に相談した所、子や孫は賛成したが、細君だけは疑いをさしはさんだ。


「年寄りの力で、小さな丘でさえ切り崩す事はできないと思うのに、太行山と王屋山のように高い山がどうなるものですか。だいいち、崩した土や石をどこに置くつもりですか」


というわけだ。


「土や石は渤海の浜へでも捨てればよかろう」ということで、三人の子や孫を引き連れて山に行き、崩した土や石を箕(み)やもっこで渤海の浜へ運び始めた。


近所の七~八歳の男の子も手伝いに加わった。


何しろ、渤海まで一往復するのに一年がかりという、気の遠くなるようなありさま。


これを見た知叟(ちそう)という男が笑いながら言った。


「馬鹿さ加減もいい加減にしたらどうだ。行き先短い体で、山の一角さえ崩しきれまいに。」


すると愚公翁さんは哀れむように答えた。



「あんたみたいな浅い考えの持ち主には、到底分かるまい。あんたの知恵は、あの小さな子供にも及ばない。


たとえ自分が死んだとて子は残るし、それが子を生み、孫はまた子を生む。子孫は絶えることはあるまい。


子孫代々山を崩し続ければ、いつかは平らになるはずじゃ。


崩した山が元に戻る事はないからな」


知叟も、これには反論のしようもない。



志というのはこういうことなのだなと思います。


私も、自分一代で教育改革がなされるとは思っていません。100年、もっとかかるかもしれません。


だからこそ、自分の意思を後世に伝えられるような人間になりたいですし、


そういう言葉をたくさん持てるよう、経験を体験に昇華させる心がけを忘れたくないと思います。



▼知識人の資格▼


知識人というものに、もし役割があるとするならば、知の営みに取り組める才能と環境に恵まれた事に深く感謝し、


その才能と環境によって獲得した知を、思いをこめて、一人でも多くの人々のもとに届ける事である。


その役割を自覚する事こそが、知識人に求められる最低限の資格なのである。


―複雑系の知 田坂 広志 講談社より―



ノブレスオブリージュ



という言葉が浮かびます。


強きものは弱きものに対して責任がある。


私も、思います。日本に生まれたこと自体が恵まれた事であり、日本に生まれて得る事ができた知識を使って、世の中に貢献する事が、日本人としての使命なのではないかと思っています。


知識者とは、専門用語で固めて自分の能力を誇示するものではなく、


平易な言葉で、その知識を世に広める人であることが大切なのだと思います。


私は、自分が得る事のできた知識、経験を世の中の為に使いたいと思っています。特に教育という分野においてその力はいかんなく発揮できると思っています。




▼同行~縁あって、同じ道を行く人々▼


リーダーとは、


 多くの人々を指導し、人々が集まる組織を統率していく人物


 という意味ではない。

 リーダーとは、


 山を登り続ける人間


 である。

 リーダーの成長以上に、部下は成長しない。

 かといって、立派な人間である必要はなく、成長意欲を持ち続けることが大切。



「同行」


 という言葉があります。


 浄土真宗では「どうぎょう」と読み
 禅宗では、「どうあん」と読みます。


 その意味は、


 縁あって、同じ道を行く人々

  どちらが上だ、どちらが下だということはない。
 どちらが指導者で、どちらが追従者ということはない。


 たしかに、この職場においては、何かの縁で、上司の役割、部下の役割を務める。

 しかし、根本においては、いずれ「山道を登り続ける」一人の人間同士



 何かの縁で、自分が上司を務めさせていただいている
 何かの縁で、この方々が部下の立場を務められている。


 しかし、いずれ、深い縁あって、この職場で巡り会った。

 そして、お互いのかけがえのない人生の時間を、共にしている。


 人生の一つの時期を、共に歩んでいる。

 しかし、いずれ、また、道は分かれる。


 そして、共に歩んでいる時も、もとより、自分の力で登っている。
 誰かが、自分の荷物を担いでくれるわけではない。


 けれども、心の奥深くで、その出会いに感謝している。

 共に歩むその時期に、互いに切磋琢磨して成長したいと願っている。

 そんな思いを、誰よりも深く抱いている人間。


 それが、本当の意味での「リーダー」なのかもしれません。

 出会いは、巡り会い。
 
 どんな出会いにも必ず深い意味がある。


 なぜ、我々はマネジメントの道を歩むのか ~田坂広志 PHPより~


 世界には65億人の人間がいる。その中で出会えたその人は、たとえ自分とは分かり合えない人であっても、大切な出会い。


 その中で自分の部下となった人間。


 マネージャーはその部下の人生を預る。


 だからこそ、本気で、心と心でぶつかって、彼らとともに成長したい。


 母店店長として、新卒社員を受け入れた3年間を思い出しました。


 僕は合計、14名の新卒社員を受け入れました。

 新卒にとって母店店長は、親みたいなもの。


 初めての上司で、絶対に心に残り、何よりも基準となる。


 過去の自分がそうであった様に。


 だから、それこそ命懸けだったと思います。


 時には厳しくしたり、納得するまで一対一で話したり、彼らの人生預っているのだという覚悟もあったが、やっぱり同じ会社の人間として同じ山を登っていくのだという



 「同志」


 という意識もあった。


 偉ぶるわけでない。


 ほんの数年先に入社しただけ。
 
 役割が違うだけ。
 
 そして、数年を経てそのうちの1人とは本社でまた上司部下の関係ではないが、同じ採用教育の仕事をしている。
 

 この「同行」という言葉を実感します。




2008-03-20 | Posted in |-【仕事論】No Comments » 
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